■室町時代後期 ~庭園の起り 太田道灌~
江戸城築城等で知られる太田道灌(おおた・どうかん)は、駿河守護6代当主 今川義忠の討ち死に端を発した、今川家の家督を巡る内紛を治めるため、静岡に派遣された。
その際、焼津・小川の街の繁栄の基礎を一代で築いたとされる「法栄長者」と意気投合し、本庭園を構想、築造したと伝えられている。
■江戸時代 ~静岡浅間神社別当寺 惣持院~
かつて、この地には静岡浅間神社の別当寺「惣持院」が在った。
明治元年(1868年)の神仏分離令により廃寺になるまで、晩年の
徳川家康の右腕と謳われる大僧正「天海」が定宿として使われた。
「惣持院庭 此庭狭小なりといへども、泉山築山ありて、風景頗よし」
駿國雑誌(著/阿部正信)にて、惣持院の中でこの庭が生き続けて
いた様子が描かれている。
■明治時代 ~初代静岡県知事 関口隆吉邸~
徳川慶喜の側近として、大政奉還や江戸城開城、慶喜公の静岡移住に尽力し、後に初代静岡県知事を務めた「関口隆吉」は、徳川宗家第十六代 徳川家達邸を間借りし、住んでいた。その地に静岡尋常中学校(現、静岡県立静岡高等学校)が建設されることとなり、転居。後に、銀行家の小林年安の協力により、この地へ移り住んだ。
■明治~昭和時代 ~尾崎 伊兵衛~
関口が他界した後、複数の個人が本土地を所有する。その内の1人が、静岡の名家「尾崎家」。特に4代目尾崎伊兵衛は静岡の茶業発展に尽力し、静岡商工会議所の会頭、静岡三十五銀行(現・静岡銀行)の頭取を務めるなど、静岡の発展に大きく貢献した。
■昭和~平成 ~割烹旅館 喜久屋の誕生~
1953年(昭和28年)8月 静岡鉄道他、静岡市内の有力者14名の共同出資により
割烹旅館「喜久屋」が開業した。
財政会の有力者の宴席等、地元名士らに人気を博し、この地で約52年間の歴史を
刻んだが、建物老朽化等により、2005年(平成17年)惜しまれつつも閉店となった。